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2011年6月20日月曜日

長門裕之さんの死に寄せて

(5/21に別のブログに投稿した記事を転載しました。)

長門裕之さんの死に寄せて

先日、長門裕之さんが亡くなった。認知症の症状を抱えた妻、南田洋子さんを看取ったのが2009年。どんな想いで最後の日々を送られたか、想像せずにはいられない。

私の父もアルツハイマーに苦しむ母と共に暮らし、最後の数ヶ月は自らも末期の肺ガンが脳に転移するなか母を見送り、その一ヶ月半後にあとを追うようにこの世を去った。長門裕之さんの介護生活の様子が紹介された新聞記事を父は切り抜いて、母の目の届かない場所にしまっていた。一種同志のような親しみを覚えていたと思う。

私自身、二人の介護に海を超えて数年通った末、父にガンが診断されてからは日本に住んで二人と寝食を共にした。60年以上共に人生を分かち合ってきた妻の人格が、みるみる目の前で崩壊していく寂寥感に、父が自身の体の内側から崩れていく様子がうかがえた。

その中で日々湧き上がるやり場のない怒りに苦しんでいた。言っても意味のない、かえって状況を悪化させるだけの非難の言葉を、時に妻にぶつけてしまう自身の不甲斐なさに、また怒りと悲しみがこみ上げる。そのはけ口がない中、私もそれをなんと受け止めようと努力した。父は私にそういう意味で甘えてくれたと思う。母のしもの世話や食事、買物の世話も必要だったが、猛る心の安全な器となる第三者の存在も父にとって不可欠だったと思う。

小さい時から父母の諍いには、気づくと長女である私が緩衝材になってもいた。その延長線上に晩年の父母との関係はあった。親子の三角関係が健全とは言えないことをずっと以前に学んだが、沢山の綻びを抱えながらもそれを乗り越えて、なんとかうまく支えあえたと思う。

私も母の人格崩壊と原始脳から噴き出すような動物的怒りに、父よりも直接にさらされた。それでもそうして幼女に戻っていく母の、時に可愛い姿を間近に見て、毎日童謡を一緒に歌い、3才の子供の姿をした母を心の中で両腕に抱いて毎日を送れることに感謝した。父が時に感じていたと同様、幼児化する母が私も心から愛おしかった。ただ、父にとっては母はどこかでまだ女でもあった。時に女として見るに耐えない様子から目を逸らすこともあった。

長門裕之さんは一人で妻の世話をしていたときく。その分、緩衝剤のない心の化学反応はきっと激しく辛いものだったろう。しかし、同時に二人の時間も圧倒的に濃いものだったに違いない。夫婦とは男と女である事を超越しながら、根底に男と女である事の固い結び目を残す厄介で、不思議な、また掛け替えのない関係の一つなんだと思う。

父母の死から一年経った今、もうこの腕に抱くこの出来ない二人の存在が、無性に愛おしい。



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